暴君の息子は“ブリテン一の助言者”になった――グウィネズ王ラン・ヒルの生涯

ウェールズ史上もっとも嫌われた王、マエルグウィン。叔父を討って王位を奪い、“悪魔のような王”とまで呼ばれた人物です。そんな父のもとに生まれた息子ラン・アプ・マエルグウィンは、どんな王になったのでしょうか。生い立ちから最期まで、年代順にたどってみます。
なお、これからお話しする内容は、中世の年代記や伝説などをもとに僕の解釈も加えたものです。物語としてお楽しみください。
悪魔の王の息子に生まれて
ランは、北ウェールズの王国グウィネズの王マエルグウィンの息子として生まれました。グウィネズは、5世紀にキネダが建てた国。ランはその血を受け継ぐ王子です。
父マエルグウィンは、叔父オウァイン・ダントグウィンを破って王位を手にした暴君でした。ランには妹エウルガインがいて、のちに北ブリテンの王族エリディルに嫁ぎます。この結婚が、やがてランの人生を大きく揺さぶることになります。
成長したランは、ひときわ背が高く、赤褐色の巻き毛の青年だったと伝えられます。「ラン・ヒル(背の高いラン)」というあだ名は、ここから来ています。
父の“お使い”に振り回された王子時代
王子時代のランには、ちょっと気の毒な逸話があります。あるとき父マエルグウィンは、臣下エルフィンの妻を誘惑してこいとランに命じました。ところがエルフィンには、予言の力を持つ宮廷詩人タリエシンがついていました。タリエシンは企みを見抜き、侍女を妻の身代わりに立てて、ランをまんまとだまします。後世の物語ですが、暴君の父に逆らえない王子の姿がよく表れた話です。
グウィネズの王へ
547年頃、父マエルグウィンが大疫病で世を去り、ランはグウィネズの王となりました。一説には、暴君となった父をラン自身が王位から退けたとも伝えられています。

王となったランは、息子ベリをもうけ、約40年にわたってグウィネズを治めます。コンウィ渓谷には「ランの砦」という意味の地名カイルフンが残っています。もとはローマ軍の砦があった場所で、コンウィ川の渡河地点を押さえる要衝。ここがグウィネズの守りの要を見張る、ランの拠点だったと考えられています。
義弟の死と、焼かれたアルヴォン
そんなランの治世を揺るがしたのが、「北との戦争」です。
ある時、ランの宮廷があったアルヴォン(今のカーナーヴォン周辺)で、妹の夫エリディルが殺されました。場所は、今も「戦いの小川」と呼ばれるカドナント。理由は分かっていません。エリディルが王位をめぐってランと争っていたのではないか、とも語られます。

エリディルの死の責任を、北の一族はグウィネズに求めました。リデルヒ・ハエルら北ブリテンの名だたる領主たちが攻め込み、アルヴォンを焼き払ったのです。

はるか北への遠征
ランは黙っていませんでした。軍を集め、北へ進軍します。目指したのは、今のスコットランドのフォース湾。エジンバラのすぐそばです。北ウェールズからそこまで軍を率いるのは、6世紀には並大抵のことではありません。しかもそこは、先祖キネダの故郷マナウ・ゴドッディンの近く。一族のふるさとの地に、ランは敵として乗り込んだのです。

記録によれば、ランとその軍勢は長いあいだ北にとどまりました。そして586年頃、ランはこの世を去り、王位は息子ベリへと受け継がれます。ランの死を悼む哀歌『マルウナド・ラン』は、彼が北の戦いで倒れたと伝えています。ちなみにこの哀歌、かつては若き日のランをだましたあのタリエシンの作とされていました。
この戦いで勇敢に戦ったアルヴォンの人々には、「グウィネズ軍の先陣を切る権利」が与えられました。この特権は600年以上のちの法典にも記されており、戦いがいかに人々の記憶に深く刻まれていたかがうかがえます。
“ブリテン一の助言者”として
ランの名は、死後も物語の中で生き続けます。12世紀の物語『ロナブイの夢』では、アーサー王が助言者たちを呼び集める場面に、ひときわ背の高い赤褐色の巻き毛の男が登場します。それがランでした。語り手はこう教えられます。「ブリテンに、彼ほど助言に長けた者はいない」。

中世ウェールズの『トライアド(三題詩)』でも、ランは「ブリテン島の麗しき王子たち」の一人に数えられています。
ランはどんな人物だったのか
父マエルグウィンは、「殺した」「奪った」という話で記憶されました。一方のランは、「麗しい王子」「遠征を率いた王」「ブリテン一の助言者」として語り継がれています。暴君の父のもとで育ちながら、父とは違う姿で記憶された王。それが、ラン・アプ・マエルグウィンです。
ランが生きた時代の全体像はブリタニア時代の記事で、グウィネズを興した先祖キネダについてはこちらの記事で紹介しています。





