ローマ帝国に二度立ち向かった“老王”――ブリタニア王エウダヴ・ヘンの生涯

4世紀、ブリタニアはまだローマ帝国の支配下にありました。そんな時代に、巨大なローマを相手に反旗を翻し、ブリタニア王を名乗った男がいます。ウェールズの首長、エウダヴ・ヘンです。一度は国を追われながら、再び王座に返り咲き、最後は剣ではなく知恵で国を守った――その生涯を、年代順にたどってみます。
なお、これからお話しする内容は、中世の年代記や伝説などをもとに僕の解釈も加えたものです。物語としてお楽しみください。
「意志の強い老王」という名前
エウダヴという名前は、古いブリトン語で「とても意志の強い者」という意味だといわれます。そして「ヘン」は「老いた」という意味。のちに12世紀の歴史家ジェフリー・オブ・モンマスは、彼をラテン語風に「オクタヴィウス」と呼びました。
意志が強く、長く生きた王。この名前は、彼の生涯そのものを言い表しているのかもしれません。
「ブリタニアは見下された」
324年、ブリタニア王を兼ねていた皇帝コンスタンティヌス1世は、東ローマも手に入れ、ローマ帝国全体の皇帝となります。もはやブリタニアに関わる余裕はなく、彼はブリタニアを去り、ローマの地方総督を王として送り込みました。
これまでブリタニア王には、皇帝かそれに並ぶ身分の人物が就いていました。それが、格下の総督に任されたのです。ウェールズ付近を治めていたエウダヴは、これを「ブリタニアは見下された」と受け止めます。

エウダヴは兵を挙げ、総督を討ち取り、自らブリタニア王を宣言しました。
勝利、そして北での完敗
コンスタンティヌスは反乱を鎮めるため、大叔父トラヘルンに3つの軍団を預けて送り込みます。最初の戦いは、当時の都ウィンチェスターの郊外。勢いに乗るエウダヴはここでも勝利し、トラヘルンは北のスコットランドへ逃れました。

エウダヴは追撃して北上します。しかし、ローマ軍の拠点カーライルに近いウェストモーランドで、態勢を立て直したトラヘルン軍に完敗。エウダヴはブリタニアを追われ、海を渡ってノルウェーのグンベルト王のもとへ身を寄せました。

仲間が開いた、帰り道
異国で反撃の機会をうかがうエウダヴ。ところが、事態はブリタニアの側で動きます。エウダヴを支持する人々が、ロンドン郊外でトラヘルンを急襲し、討ち取ったのです。
知らせを受けたエウダヴは急いで帰国し、ローマ軍を蹴散らして、再びブリタニア王の座に返り咲きました。

剣ではなく、娘で守った平和
王となったエウダヴには、大きな不安がありました。ローマ帝国が本気でブリタニアを取り戻しに来ることです。そこで彼が選んだのは、戦いではなく結婚でした。
美しい娘ヘレンを、ローマ軍の実力者マグヌス・マクシムスに嫁がせたのです。息子のいないエウダヴの跡継ぎを狙っていた甥のコナン・メリアドクはこれに猛反対しましたが、やがて受け入れます。エウダヴは王位をマグヌスに譲り、マグヌスはのちに西ローマ皇帝にまで上り詰めました。

ローマと戦い続けた老王は、最後に、ローマと手を結ぶことで国を守ったのです。
夢の物語の中のエウダヴ
この結婚は、ウェールズの伝説『マクセンの夢』として語り継がれています。皇帝マクセン(マグヌス)は、夢で見た美しい乙女を探し続け、ついにウェールズのカーナーヴォンの城で彼女を見つけます。その父親こそ、エウダヴ・ヘンでした。乙女を妻に迎えたマクセンは、エウダヴにブリタニアの統治を任せ、3つの城を築かせたといいます。この物語は、マグヌス・マクシムスの記事で詳しく紹介しています。

アーサー王へとつながる血筋
ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』によれば、エウダヴの甥コナン・メリアドクはアーサー王の曾祖父にあたります。つまりエウダヴは、アーサー王の祖先の一人というわけです。
さらに中世ウェールズの系図には、北ブリタニアの実力者コエル・ヘンの妻が、エウダヴの子孫だったとも記されています。コエルの娘婿となったのが、グウィネズを建てたキネダ。エウダヴの血は、のちのウェールズ王家の流れにもつながっていくのです。
エウダヴ・ヘンはどんな人物だったのか
誇りを傷つけられれば、相手が大帝国でも立ち上がる。敗れても異国で機をうかがい、仲間に支えられて返り咲く。そして最後は、娘の結婚で国の平和を守る。「意志の強い老王」という名のとおり、エウダヴは不屈の闘志と、引き際を見極める知恵をあわせ持った王でした。ローマとの戦い、マグヌスとの縁、そしてアーサー王へとつながる血筋。ウェールズの歴史を語るうえで、欠かせないキーパーソンの一人です。





