60歳で全部捨てて国を興した男――ウェールズの創始者キネダに学ぶ“勝負どころ”の見極め方

時代をつくった英雄なのに、確かな記録が少ないせいで、ほとんど光が当たらない。ウェールズの歴史には、そんな“埋もれた偉人”がたくさんいます。

今のウェールズの原形となる国をつくった人物も、その一人。5世紀初めに活躍したキネダ・アプ・エダンです。キネダについての情報は英語でもわずか、日本語ではほぼゼロ。10年かけて調べてきた内容を、この記事に凝縮してお届けします。

ただの歴史解説にとどめず、「わたしたちの生き方に活かせる、創始者の秘訣」という視点でもまとめてみました。

なお、これからお話しする内容は、伝説などをもとに僕の解釈も加えたものです。真偽が不明な箇所もあるので、物語としてお楽しみください。

名前に込められた、時代の変わり目

キネダは382年頃、今のスコットランド、エジンバラの近くにあったブリタニアの小国マナウ・ゴドッディンで生まれました。当時のブリタニアは、数百年にわたるローマ帝国の支配が終わりに近づいていた頃。ブリトン人たちはローマ軍の指揮のもと、辺境の警備にあたっていました。

キネダも成長すると、祖父や父と同じように、北からやってくるピクト族やヴァイキング、アイルランドから渡ってくるスコット族の侵入を防ぐ戦いに身を投じます。

ここで、キネダという名前について少し。父はエダン、祖父はパダンといい、どちらもローマ風の名前です。祖父パダンについては、赤いローブの戦士パダン・ベイスリュッドの記事で紹介しています。ところがキネダはブリトン人に特有の名前で、「Cune(犬)」と「dda(良い)」を組み合わせたもの。ローマの色がだんだん薄れ、ブリトン人が自分たちの国を背負って立たねばならない時代へ――そんな思いを込めて、祖父と父はこの名を選んだのではないでしょうか。

ライオンのように戦った男

ローマ帝国そのものが弱体化し、ブリタニアの支配が行き届かなくなると、ローマは各地の首長に自治を認めるようになります。キネダもマナウ・ゴドッディンを自ら治めながら、青い刺青の戦士部族ピクト族と絶えず戦って国を守っていました。その戦いぶりを見ると、キネダは相当な猛将であり、同時に知将でもあったようです。

徹底的に、恐れず、やり切る

伝えられるキネダの戦いぶりは、こんな調子です。

  • 戦う姿はライオンのように獰猛で、恐れを知らず、誰も抵抗できない。敵は完全に壊滅するまで徹底的に叩く。
  • 危険が大きければ大きいほど、敵が強ければ強いほど、それを打ち負かす楽しみがある。

ピクト族と戦うキネダ。背後はインチケイス島の要塞

やるときは集中して徹底的にやる。何事も恐れず挑む。キネダは強力な要塞を築き、ピクト族、スコット族、ヴァイキングの攻撃をことごとく退けて、その名を轟かせていきました。拠点の要塞は、フォース湾に浮かぶインチケイス島にあったとされています。

北部ブリタニアを掌握し、最高司令官へ

面白いのは、この時期のキネダが領土を大きく広げたり狭めたりしていないことです。ブリタニアの国同士で侵略戦争はせず、ローマの意向に従って外敵との戦いに専念していたのでしょう。

当時、マナウ・ゴドッディンの南には、コエル・ヘンという強力な首長が「ノーザンブリテン」と呼ばれる広大な国を治めていました。410年にローマ軍が撤退すると、コエルはブリタニア全体を率いる司令官となり、キネダもこれに従っていたと考えられます。

ところが420年頃、コエルがピクト族とスコット族の連合軍との戦いで戦死すると、事態が動きます。ノーザンブリテンは息子たちに分割され、北部はガルバニオンがベルナシア国として継承。キネダはこのベルナシアと激しく戦います。ガルバニオンと確執があったのか、領土拡大の欲が出たのか、真相は分かりません。ただ、その戦い方は凄まじく、敵を壊滅するまで追い詰め、ベルナシア軍は恐怖で震え上がり、逃げ出す者が後を絶たなかったといいます。

勢いに乗ったキネダはダラムの要塞を落としてベルナシアを占領し、さらにローマ軍最大の砦だったカーライルまで奪い取ります。こうしてブリタニア北部を掌握したキネダは、「ドゥクス・ブリタンニアルム(ブリタニア最高司令官)」を宣言。コエル・ヘンの後継者という形になったのです。

黄金のベルトを締め、赤い竜の旗のもとに立つ最高司令官キネダ

キネダを描写した、こんな一節が残っています。

彼は黄金のベルトを身につけ、歩くときには900頭の馬と従者が従った。戦場に向かうときには赤い黄金のドラゴンが頭上を飛び交い、剣を抜けばライオンの姿に変わる。その勇敢さと強さに、誰もが恐れをなして抵抗する気力を失った。

戦い好きなだけではない――知将キネダの3つの戦略

キネダはとても好戦的な人物だったと思います。でも、ただの戦い好きではありません。その行動には、はっきりした戦略が見えます。

敵をも味方に取り込む 辺境警備の頃、キネダはヴァイキングの攻撃にも手を焼いていました。そこで取った手が、彼らの要求を聞くこと。略奪を繰り返すヴァイキングにとって魅力的な「住む場所と食料」を与えることで、キネダはヴァイキングを味方に引き入れてしまいます。彼らの戦闘能力と航海技術は、自分が持っていない力でした。敵を取り込むことで、その力を手に入れたわけです。

住む場所と食料を示し、ヴァイキングを味方に引き入れるキネダ

強い相手にはむやみに歯向かわず、協力関係をつくる 若い頃、ローマの影響力が強かった時代には逆らわず、スコットランドの厳しい気候の中で黙々と辺境警備を続けました。コエル・ヘンが最大勢力だった時も、コエルの娘と結婚して同盟関係を築いています。

流れを読み、時を待ち、一気に動く ローマもコエルも、いずれ弱るか亡くなるとキネダは見ていたのでしょう。じっとチャンスを待ち、410年にローマが撤退し、420年にコエルが亡くなると、一気に動いて北部ブリタニアを掌握しました。

60歳で、すべてを捨てて南へ

北部ブリタニアを掌握したキネダは、息子たちに辺境警備を任せ、10年ほど平穏に過ごします。ブリタニアは北部と南部に分かれ、南部の司令官ヴォーティガンはローマとのつながりもあって、最も強い権力を握っていました。

440年頃、キネダは50代から60代。そのヴォーティガンから、「南部ブリタニアの海岸(今のウェールズ)に攻めてくるスコット族を追い払ってほしい」と要請が届きます。

ヴォーティガンからの要請を手に、南を見据えるキネダと息子たち

ここでキネダは、驚くべき決断をします。8人の息子と1人の孫を全員連れて、ウェールズ北部に移住したのです。それまで持っていた北部ブリタニアの領土も地位も、すべて放棄して。

一族を率いてウェールズへ向かうキネダ

なぜ、すべてを投げ打ったのか

キネダはなぜそこまでしたのか。この理由がどうしても気になって、あれこれ考えてみました。

  • 北部より気候の良い南部のほうが住みやすい
  • 母方はウェールズ出身で、父方の祖先も南部ブリタニアの可能性があり、南部に憧れがあった
  • とにかく戦いと危険が好きで、スコット族との戦いはまたとないチャンス
  • これからブリタニアの中心は南部になる、と感じていた
  • 評判の悪いヴォーティガンに代わって、自分が南部を担おうと考えた

どれが正解かは分かりません。ただ、移住後はスコット族との戦いに集中し、ヴォーティガンや近隣の国々と争った形跡がないことを考えると、領土への欲はあまりなく、キネダは根っからの戦士だったような気がします。

ふたたび猛者ぶりを発揮

ウェールズは長年、アイルランドから渡ってくるスコット族の侵略に苦しんでいました。南部にも北部にも、海岸沿いにスコット族の居住地が数多くあったのです。ちなみに、当時アイルランドに住む人々を「スコット族」と呼びました。彼らがブリテン島北部に攻め込んで国をつくったことから、その地が「スコットランド」と呼ばれるようになります。

キネダと息子たちは、アイルランド南部から来たこのスコット族に戦いを挑みます。北部時代の経験、特にヴァイキングから学んだ船を使った戦術は、海を越えてやってくる敵に対して大いに役立ったことでしょう。キネダたちはウェールズの北から南まで、スコット族を徹底的に攻めて壊滅させ、ウェールズから撤退させることに成功しました。

ウェールズの原形となる国を建国

スコット族を追い払ったキネダは、その地に国を興します。北部をグウィネズ、南部をケレディギオンと呼び、領土を分割して8人の息子と1人の孫に分け与えました。これらの国の名前は息子たちの名前にちなんでいるとされ、今も多くが地名として残っています。

キネダによるグウィネズ国の建国

そして、自分の領土を息子たちに均等に分けるというやり方は、ウェールズの風習となり、10世紀に制定されたウェールズ法にも記されることになりました。このウェールズ法をつくったハウェル善王の話は、統一時代の記事をどうぞ。

息子たちに領土を分け与えるキネダ

創始者キネダから学べること

正確には、ウェールズの原形となるグウィネズとケレディギオンの創始者。そのキネダの血筋は後のウェールズ王室に受け継がれ、さらにテューダー朝へと伝わり、現在のイギリス王室にまで達しています。始まりの一点から今日までたどれるというのは、なんともロマンのある話です。

さて、冒頭で「わたしたちの生き方にも活かせる」と書きました。キネダの生涯から見えてくる秘訣を、おさらいしておきましょう。

  • 自分の力を知り、勝ち目のない相手とは勝負せず、できることをする
  • ライバルであっても良い点は吸収し、時には味方につける
  • やるときは徹底的に、とことんやる
  • 世の中の流れをつかみ、待つときは待ち、動くときは思い切って動く
  • チャンスと見れば大胆に決断し、行動する
  • 得たものに執着せず、人に分け与える

5世紀の、あまり知られていない伝説の人物。それでも、学べることはたくさんあります。

キネダが生きた時代の全体像は、ブリタニア時代の記事で紹介しています。キネダの子孫とアーサー王伝説の重なりについては、こちらの記事をどうぞ。

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