戦わずして天下統一? ウェールズに現れた二人の“大王”――ロドリ大王とハウェル善王の時代

戦乱続きだった中世初めのウェールズは、小国に分かれてバラバラに統治されていました。今回は、「大王」と呼ばれる英雄がウェールズをひとつにまとめ上げた時代、9世紀前半から10世紀中盤までのお話です。婚姻でじわじわ領土を広げた大王、ヴァイキングの王を討ち取った戦い、そして600年も生き続けた法律をつくった“善王”まで。ウェールズ史でも屈指の見どころが詰まった時代です。
6分の動画で、ざっくり流れをつかみたい方はこちらをどうぞ。

主役交代:マーシアの衰退と、海からやってきた新たな脅威
前回お話ししたように、メルヴァンの活躍でウェールズは窮地を脱し、平和を取り戻しつつありました。とはいえ外敵の脅威が消えたわけではなく、しかもこの時代、イングランド側の状況が大きく変わっていきます。
8世紀末に最大勢力を誇ったオッファ王のマーシアは、その後力を落としていきました。代わって急速に力をつけたのが南西部のウェセックス。エグバート王の時代にはマーシアを支配下に置き、イングランド最大の権力を握るようになります。

ところがそのウェセックスやマーシアにとっても、新たな脅威が現れました。ヴァイキングです。8世紀終わり頃からデンマークやノルウェーのヴァイキングがイングランド東岸に出没して略奪を働き、9世紀半ばになると物品だけでなく領土まで奪うようになります。10世紀初めの地図を見ると、「デーンロー」と呼ばれる地域、実にイングランドの3分の1以上がヴァイキングの手に落ちていました。

かつてブリトン人のブリタニアを侵略したアングロ・サクソン族が、今度はヴァイキングに侵略される側に回ったわけです。そしてこの強敵は、当然ウェールズにも襲いかかってきます。内乱続きで小国に分かれたままでは、イングランドにもヴァイキングにも太刀打ちできません。ウェールズには、国をひとつにまとめる強いリーダーが必要でした。
戦わずして統一? 婚姻で広げたロドリの領土

9世紀のウェールズには、領土や財産を息子たちに均等に分けるしきたりがありました。公平ではあるものの、四国ほどの面積しかないウェールズはこれで小国に分かれ、その小国もさらに分割され、代を重ねるごとに一人あたりの持ち分は小さくなっていきます。争いや内乱が絶えなかったのも、この仕組みが一因でした。
そんな中で現れたのが、ウェールズを立て直したメルヴァンの息子、ロドリ(ロドリ・アプ・メルヴァン)です。844年に父の後を継いでグウィネズの統治者となったロドリですが、面白いのはその領土の広げ方。「戦いに明け暮れて勝ち取った」というイメージとはずいぶん違います。
まず855年、叔父カンゲンが治めていた隣国ポウィスをロドリが統治するようになります。さらに南西部のセイサルウィグ国については、統治者グワゴンの妹アングハラドを妻に迎えて、縁を結んでいました。グワゴンには息子がいなかったため、872年ごろに彼が亡くなると、妹の夫であるロドリがその領土を引き継ぎます。こうしてロドリは、ほとんど戦うことなく、平和的にウェールズの大部分を統一してしまったのです。

ロドリはできる限り戦いを避けたかったのでしょう。内乱で国力が落ちれば、勢いを増すウェセックスや、その支配下にあるマーシア、そして北から領土を狙うヴァイキングに付け入る隙を与えてしまいます。婚姻を上手に使った統一は、外敵だらけの時代を生き抜くための賢い選択だったのです。
ヴァイキング王ゴルムを討ち取る――“大王”誕生の瞬間
とはいえ、ウェールズもヴァイキングの攻撃を頻繁に受け、特に沿岸部は悩まされ続けていました。そして856年、ウェールズ史上最大級の事件が起こります。デンマーク系のヴァイキングを率いる首領ゴルムが、軍を率いてウェールズに攻め込んできたのです。
国内では戦いを避けてきたロドリですが、武人としても優れていたようです。ロドリはヴァイキング軍と果敢に戦い、ゴルムを討ち取ってウェールズを守り抜きました。この勝利はアイルランドの年代記に記録され、海の向こうのフランク王国の宮廷でも、たたえる詩が詠まれたと言われています。

この戦いの後も略奪や小競り合いはあったものの、ヴァイキングがウェールズを占領して支配することはありませんでした。ヴァイキングを退け、ウェールズの大部分を統一したロドリは、いつしか「ロドリ大王」と呼ばれるようになります。
それにしても、アングロ・サクソン諸国は領土を奪われたのに、なぜウェールズは守り切れたのでしょうか。あくまで筆者の見立てですが、両者の戦い方の違いが大きかったのではないかと思います。ヴァイキングは船で密かに上陸し、船ごとのグループで集落を急襲、盾と斧による接近戦で相手を圧倒するのが得意でした。一方ウェールズの戦い方は、地形を利用して敵をおびき出し、茂みに隠れて待ち伏せ、ロングボウという強力な弓で遠くから射抜くというもの。知り尽くした山岳地帯で遠距離から急襲されては、接近戦が持ち味のヴァイキングも戦いづらかったはずです。平野の多いイングランドと違い、山だらけのウェールズは海からやってくる敵にとって攻めにくい土地だったのでしょう。

三本の矢――「ブリテン島の三王」
ロドリの国は、息子たちに受け継がれました。長男アナラウドにはグウィネズ、次男カデルにはセイサルウィグ、三男メルヴァンにはポウィス。伝承では、ロドリが生きているうちに国を分け、「三人で協力してウェールズを治めよ」と託したとも言われています(実際に分かれたのは、ロドリの死後のことです)。

領土を受け継いだ三兄弟は互いに協力し合い、「ブリテン島の三王」と呼ばれるほど名を轟かせました。日本で言えば、毛利元就の「三本の矢」を思わせる話です。ところがこの結束、残念ながら長くは続きませんでした。
大王の最期と、「ロドリのための神の復讐」
晩年のロドリには試練が続きます。877年ごろ、ヴァイキングがふたたびグウィネズを襲い、アングルシー島での「日曜日の戦い」でロドリは敗れて、アイルランドへ逃れました。
当時のマーシアは、ヴァイキングの大軍勢に国土の半分を奪われ、残りをヴァイキングの後ろ盾を受けたセオルウルフ王が治めていました。のちにマーシアは、ヴァイキングに征服されかけたアングロ・サクソン諸国を守り抜いた英雄、ウェセックスのアルフレッド大王の勢力下に入っていきます。

翌年、ウェールズに戻ったロドリを待っていたのは、このセオルウルフ率いるマーシア軍でした。878年(877年とする記録もあります)、ロドリ大王は息子グリアドとともに戦死してしまいます。
これに対してウェールズ側が起こしたのが、「ロドリのための神の復讐」と呼ばれる戦いです。アナラウド、カデル、メルヴァンの三兄弟は結束を強めて抗戦し、881年、コンウィの戦いでマーシア軍を撃退しました。大王の死は痛手でしたが、三兄弟の力でウェールズは守られたのです。ただし、それは再び訪れる戦乱の序章でもありました。

崩れた結束――息子たちの乱と王家の分裂
野心を燃やす長兄アナラウドは、なんとヴァイキングと手を組んでマーシアを攻めます。これがうまくいかず同盟は破棄、今度はヴァイキングを見限ってウェセックスのアルフレッド大王と同盟を結びました。そして次にアナラウドが狙ったのは、外敵ではなく弟でした。次男カデルの領土を狙って、南へ攻め込んだのです。
攻められたカデルも黙ってはいません。領土の南まで侵略されたものの、元の国境まで押し返し、さらには三男メルヴァンを攻めてポウィスまで奪い取ってしまいます。こうしてアナラウドとカデルの対立は決定的になりました。

アナラウドを祖とする家系はアバファラウ家、カデルを祖とする家系はディナヴァウル家と呼ばれ、ウェールズの王家はここで二つに分裂します。「ブリテン島の三王」とまで讃えられた結束は、父ロドリ大王の願いもむなしく、水の泡となってしまいました。
孫たちの乱――イングランドをめぐる従兄弟同士の嫉妬
三兄弟の時代が終わると、長兄アナラウドの後は息子イドワル・ヴォエルが継いでグウィネズを治め、父と同じくウェセックス王アゼルスタンと同盟を結んで忠誠を誓います。一方、次男カデルの後は息子ハウェル(ハウェル・アプ・カデル)が継ぎ、セイサルウィグを治めました。ハウェルはウェールズ南西端のダヴィッド国の統治者ラワルヒの娘と結婚し、ラワルヒの死後にダヴィッドを手に入れ、セイサルウィグと合わせて「デハイバース」として領土を広げます。

この従兄弟二人の関係を左右したのは、イングランドでした。当時最大の権力者だったアゼルスタンは、アングロ・サクソン諸国を統一し、イングランド初代の王として周辺諸国に忠誠を誓わせていました。イドワルもハウェルもアゼルスタンに従いますが、なかでもハウェルは何度もアゼルスタンのもとに通い、造幣所を借りて銀貨をつくるほどの親密な関係を築きます。同じ王に従いながら、イングランドとの距離のとり方はずいぶん違う従兄弟でした。
アゼルスタンが亡くなりエドムンドがイングランドを継いでも、ハウェルは同盟を続けます。ところが942年、イドワルはイングランドに戦いを挑みます。理由ははっきりしませんが、強かったアゼルスタンがいなくなった今こそと考えたとも、イングランドの後ろ盾を得たハウェルに国をのみ込まれることを恐れたとも言われます。結果はイドワルの戦死。その隙をついてハウェルはイドワルの領土グウィネズを手に入れ、再びウェールズのほぼ全域を統一したのです。
イドワルの生涯は、イドワル・ヴォエルの記事でくわしく紹介しています。
再び大王現る――ハウェル善王と、600年生きた法律

親族同士の争いの末に勝ち取った統一、というのは何とも複雑ですが、ともかくウェールズは再びひとつになりました。そしてハウェルは、束の間ではあったもののウェールズの黄金期を築き、「ハウェル・ザ・グッド(ウェールズ語でハウェル・ダ)」、善王と呼ばれるようになります。
いったい何が“グッド”だったのでしょうか。ハウェル自身、父の代から親族どうしの争いを間近に見てきた王でした。広くなった国を争いなく治めるには、みんなが守る共通の仕組みが必要です。慣習やしきたりはあっても、統治者が国を治め、領主が土地を守って後継し、人々が安心して暮らすための、文書化された法律がウェールズにはなかったのです。
ハウェルは928年にローマへの巡礼を果たし、大陸の世界を自分の目で見てきた王でした。伝えられるところでは、のちにウェールズ各地から法律にくわしい人や聖職者を集め、各地に伝わるしきたりを整理して、ひとつの法律にまとめたといいます。その中身を少し見てみましょう。

- 領土は、非嫡子も含めた息子たちに均等に分ける
- 人を殺しても死刑にはならない。そのかわり、加害者の一族が被害者の一族に償いのお金(ガラナス)を払う
- 口臭がひどい、重い病気、性生活がないといった理由で、妻は夫と離婚できる
- 7年以上結婚生活を続けていれば、妻は夫の財産の半分を得る権利がある
犯罪や財産、相続から女性の自由と権利まで定めた、中世とは思えないほど現代的な法律です。ハウェルは武力でウェールズを統一しただけでなく、政治と社会のルールを整えて国のレベルそのものを引き上げ、平和に貢献しました。だからこそ「善王」と呼ばれたのです。
この「ハウェル・ザ・グッドの法」は、後にヘンリー8世によって書き換えられるまで、実に約600年にわたって効力を持ち続けました。当時としては最先端の法律であり、イギリスにおける法律の基礎になったと言われています。
ハウェルの生涯や法律のくわしい中身は、ハウェル善王の記事でたっぷり紹介しています。
ウェールズ史全体の流れは、中世ウェールズ史を8つの時代でたどる記事でも紹介しています。
この記事の内容は YouTube の動画 でも約6分で解説しています。よければそちらもご覧ください。





