「国じゅうに、貧しい人が一人もいない」と記された王。ウェールズ唯一の統一王の父『ラウェリン・アプ・セイサル』

「その国には、貧しい人が一人もいなかった。空っぽの村も、ひとつもなかった」
ウェールズの年代記に、そんなふうに書かれた王さまがいます。戦いと略奪ばかりが並ぶ11世紀の記録の中で、これはかなり珍しいほめ言葉です。
名前はラウェリン・アプ・セイサル。王家の本流の生まれではないのに、北のグウィネズと南のデハイバースの両方を治めた人です。そして彼の息子は、のちにウェールズの歴史でただ一人、ウェールズ全土を治める王になります。
なのに王として記録に残っているのは、わずか5年ほど。いったいどんな人だったのでしょう?
なお、これからお話しする内容は、中世の年代記や伝説などをもとに僕の解釈も加えたものです。物語としてお楽しみください。
父親のことは、ほとんど分からない
ラウェリンの名前は「セイサルの息子、ラウェリン」という意味です。ところが、この父親セイサルがどんな人だったのかは、ほとんど分かっていません。どこかの王さまだったという記録もないのです。
手がかりは母親のほうにあります。母親のプラウストは、北のグウィネズの王家の出身でした。プラウストの祖父は、ロドリ大王の長男アナラウド。ラウェリンから見ると曽祖父にあたります。つまりラウェリンは、母方から、かろうじて王家の血を引いていたわけです。
そしてもうひとつ、大きな縁がありました。妻のアングハラドが、あのマレディズ・アブ・オウァインの娘だったのです。一時はウェールズのほとんどを治め、「ブリトン人でもっとも名高い王」と呼ばれた人ですね。
王家の本流ではない。でも、王家とのつながりはある。この微妙な立場が、ラウェリンの人生を動かしていきます。
王家のいない北の国
ラウェリンが歴史に登場するころ、ウェールズはひどく混乱していました。
マレディズが999年ごろに亡くなると、彼が一代でまとめた国はバラバラになります。北のグウィネズでは、しばらくして、エダン・アプ・ブレギウリドという男が王の座につきました。エダンも王家の本流とは関係がなかったようで、どうやって王になったのかもよく分かっていません。
本来の王家の人たちはどうしていたのかというと、王子の一人はアイルランドへ逃れていました。北の国は、王家ではない男の手に握られていたのです。
1018年、北の王を討ち取る
ここで、ついにラウェリンが動きます。
1018年、ラウェリンはエダンに戦いを挑み、エダンと4人の息子たちを討ち取りました。これが、ラウェリンについてのいちばん古い記録です。いきなり、王を倒した男として歴史に登場するわけですね。
こうしてラウェリンは、北のグウィネズと、東のポウィスを手に入れました。母方に流れるグウィネズ王家の血と、名高い王マレディズの娘婿という立場。この二つが、王の座に座る理由になったのかもしれません。

「マレディズの息子」を名乗る男
北を手に入れたラウェリンの耳に、やがて南から気になる知らせが届きます。
南のデハイバースで、ラインという男が王になったのです。ラインは「自分はマレディズの息子だ」と名乗っていました。年代記は彼を「アイルランド人」、つまりよそ者として書いています。
マレディズの息子を名乗る男。これはラウェリンにとって、聞き捨てならない話です。なにしろ、ラウェリンの妻はマレディズの娘なのですから。もしラインが本物なら、妻の弟ということになります。でも、ラウェリンはそれを認めませんでした。
ラインが本当にマレディズの息子だったのかは、いまも分かっていません。ただ、少なくともラウェリンにとっては、義父の国を乗っ取ったニセモノだったのでしょう。
アベルグウィリの戦い
1022年、ラウェリンは南へ兵を進めます。
両軍がぶつかったのは、アベルグウィリ。グウィリ川がティウィ川に流れ込む、川の合流点です。年代記によると、戦いは激しく、どちらの側にもたくさんの死者が出ました。
勝ったのはラウェリンでした。グウィネズの兵たちは逃げる敵を追いかけ、荷物を奪っていったと記録されています。
そしてラインは、この戦いを最後に記録から消えます。戦いで討たれたとも言われますが、年代記には「その後、二度と姿を見せなかった」とあるだけです。どこへ消えたのか、本当のところは誰にも分かりません。
こうしてラウェリンは、南のデハイバースも手に入れました。北のグウィネズ、東のポウィス、南のデハイバース。かつて義父マレディズが治めた国を、娘婿がふたたびまとめたのです。

貧しい人のいない国
さて、冒頭のほめ言葉の話です。
ウェールズの年代記は、ラウェリンの時代をこんなふうに書き残しています。国は豊かで、人々であふれていた。貧しい人は一人もおらず、空っぽの村もひとつもなかった。
もちろん、年代記のほめ言葉をそのまま信じるわけにはいきません。それでもこの時代のウェールズは、ヴァイキングの襲撃、飢饉、身内どうしの争いが続いていました。義父マレディズの時代には、牛の疫病で人々が飢えたこともあります。その中で「誰も困っていなかった」と書かれたのは、それだけ人々の記憶に残る、穏やかな数年間だったのかもしれません。
アイルランドの年代記も、彼のことを「ブリトン人の王」と書いています。海の向こうにまで名前が届くほどの王さまだったわけです。

あっけない最期
ところが、その穏やかな時間は長く続きませんでした。
アベルグウィリの戦いの翌年、1023年。ラウェリンは亡くなります。どうして亡くなったのかは、記録に残っていません。北の王を討ってから、わずか5年ほどのことでした。
息子のグリフィズは、すぐには父の跡を継げませんでした。まだ幼かったからではないか、と考えられています。
王を失った国は、またたく間に分かれていきます。北のグウィネズには、アイルランドに逃れていた本家の血筋のイアゴが戻り、南のデハイバースは、南東のモルガンウィグの王リデルヒ・アプ・イエスタンが奪っていきました。ラウェリンがまとめた国は、彼一代で終わってしまったのです。
息子がかなえた、ウェールズ統一
でも、物語はここで終わりません。
父を失ったグリフィズは、大人になると動き出します。1039年に北のグウィネズとポウィスを手に入れ、そこから長い戦いの末に、南のデハイバース、さらに南東のモルガンウィグまで手に入れました。1050年代の終わりには、ウェールズ全土がグリフィズ・アプ・ラウェリンひとりのものになります。長いウェールズの歴史の中で、ウェールズ全土を治めた王は、後にも先にも彼ひとりだけです。
さらに、ラウェリンの妻アングハラドは夫の死後に再婚し、ブレディン・アプ・カンヴァンという息子を産みました。ブレディンは、のちにポウィスを治める王家の始まりになります。

ラウェリン・アプ・セイサルはどんな人物だったのか
ラウェリンについて分かっていることは、本当にわずかです。父親のこともよく分からず、王としての記録は5年ほど。戦いは2つ、そして死。年代記に残るのは、それくらいしかありません。
それでも、その短い記録から見えてくる姿があります。王家の本流ではない立場から、北の王を討ち、義父の息子を名乗る男を退けて、ウェールズの大部分をもう一度まとめた男。そして、その国を「貧しい人が一人もいない」と書かれるほど、穏やかに治めた王。
もし彼がもう少し長く生きていたら、ウェールズの統一は、息子を待たずに実現していたかもしれません。そう思うと、ちょっと惜しい王さまです。
ラウェリンが活躍した時代の流れは南北朝時代の記事で紹介しています。義父の物語はマレディズ・アブ・オウァインの記事、母方の祖先はロドリ大王の記事、名前の「アプ」についてはウェールズ王のあだ名の記事もどうぞ。





