子猫の値段まで法律で決めた王さま。600年も生き続けたウェールズ法をまとめた「ハウェル善王」

生まれたばかりの子猫は1ペンス。目が開いたら2ペンス。ネズミを捕るようになったら4ペンス。
これ、1000年以上前のウェールズの法律に書かれている「猫の値段」です。
こんなところまで細かく決めた法律が、なんと600年近くも使われ続けました。その法律に名前を残したのが、10世紀のウェールズの王、ハウェル・ダ。日本語にすると「ハウェル善王」です。
ウェールズの王さまで「善い王」と呼ばれたのは、彼ただ一人。いったい何が“善かった”のでしょうか。
なお、これからお話しする内容は、中世の年代記や伝説などをもとに僕の解釈も加えたものです。物語としてお楽しみください。
大王の孫として、南に生まれる
ハウェルが生まれたのは880年ごろ。祖父はウェールズをはじめてまとめ上げた「ロドリ大王」、父親はその次男で、南のセイサルウィグを治めたカデルです。
父親のカデルは、実の兄に攻め込まれても国を手放さなかった、ねばり強い王さまでした。ハウェルはそんな父の背中を見て育ったわけです。

結婚で手に入れた、となりの国
若いハウェルの運命を動かしたのは、結婚でした。
妻のエレンは、南西のとなりの国ダヴェッドの王ラワルヒの娘です。904年にラワルヒが亡くなると、ダヴェッドには跡を継ぐ王があらわれませんでした。そこでハウェルは父親とともにダヴェッドに入り、この国を手に入れます。
909年に父のカデルが亡くなると、セイサルウィグは弟のクリドウグと二人で受け継ぎました。そして920年にクリドウグが亡くなると、ハウェルは二つの国をひとつにまとめます。
こうして生まれたのが、南ウェールズの大きな王国「デハイバース」。ここから、ハウェルの快進撃が始まります。
ウェールズの王で、はじめてローマへ
928年、ハウェルは思いきった旅に出ます。行き先は、はるか遠くのローマ。
当時のローマ巡礼は、何か月もかかる命がけの旅です。それでもハウェルは無事に帰ってきました。ローマへ行って、生きて戻ってきたウェールズの王は、ハウェルが初めてだと言われています。
旅の目的は、もちろん信仰です。でも、大陸の教会や町で見聞きしたことは、のちの国づくりにもきっと生かされたことでしょう。

強すぎるおとなりさん、イングランド
そのころ、東のおとなりでは大きな変化が起きていました。アングロ・サクソン人の国々をまとめたアゼルスタンが、「イングランド王国」の王になったのです。
アゼルスタンは、まわりの王たちに自分を主君と認めさせていきます。12世紀の歴史家によると、ウェールズの王たちはヘレフォードに呼ばれ、毎年たくさんの金や銀、牛を納めるよう約束させられたそうです。
ここでハウェルは、ケンカをするより手を組む道を選びました。アゼルスタンの宮廷にたびたび顔を出し、王の文書には「ハウェル」の名前が何度も記されています。934年には、アゼルスタンのスコットランド遠征にもついて行きました。
937年、アゼルスタンに反発した国々が連合して攻め込んだ「ブルナンブルフの戦い」では、ウェールズの軍は加わっていません。ハウェルが周りを抑えていたからでは、とも言われています。ただ、アゼルスタンの側で戦ったという記録もありません。強い相手とうまく距離をとる、なかなかの現実派ですよね。
晩年には、イングランドのチェスターの造幣所で「ハウェル王」の名前を刻んだ銀貨までつくられました。ウェールズの王の名前が入ったコインとしては、今のところこの1枚しか見つかっていない、とても珍しいものです。
いとこイドワルの最期
一方、北のグウィネズを治めていたのは、いとこのイドワル・ヴォエルでした。ハウェルの伯父アナラウドの息子です。
二人の仲は、あまりよくなかったとも言われます。そして942年、イドワルはイングランドの新しい王エドムンドに戦いを挑み、弟のエリセッズとともに命を落としてしまいました。
ここでハウェルは動きます。イドワルの息子イアゴとイエヴァフを追い出し、グウィネズを自分のものにしたのです。おそらく東のポウィスも手に入れて、南東のモルガンウィグとグウェントをのぞく、ウェールズのほぼ全域を治める王になりました。
おじいさんのロドリ大王以来の、大きなまとまりの誕生です。
国中の知恵者をホイットランドに集めて
広い国をまとめるには、みんなが守る共通のルールが必要です。
伝えられるところでは、ハウェルはウェールズの各地から、法律にくわしい人や聖職者を6人ずつ呼び集めました。場所は南西部のホイットランド(ウェールズ語でティ・グウィン、「白い家」の意味)。復活祭の前の祈りの季節「四旬節」に、みんなで話し合い、各地の古いしきたりを整理して、ひとつの法律にまとめたそうです。
ただ、この集まりの話が出てくるのは、ずっとあとの写本の前書きです。残っている法律書は、いちばん古いものでも13世紀ごろのもの。本当にこんな会議があったのかは、研究者のあいだでも疑問視されています。
それでも、ウェールズの人々はこの法律を「ハウェルの法」と呼び、長く大切にしてきました。

のぞいてみよう、「ハウェルの法」
では、ハウェルの名前で伝わる法律には、どんなことが書かれていたのでしょうか。いくつか紹介しますね。
宮廷のお仕事は24人
王の宮廷で働く役人は24人。執事、鷹匠、宮廷の詩人、馬の世話係などなど。それぞれの席の位置や、仕事の中身、もらえる報酬まで決められていました。
人々は、王を頂点に、貴族、自由な農民、よそから来た人、奴隷と、身分ごとに位置が決まっていました。農民が勝手に学者や鍛冶屋、詩人になることはできず、領主の許しが必要だったそうです。
土地は息子たちで山分け
父親が亡くなると、土地は息子たち全員に平等に分けられました。いちばん下の息子が土地を分け、年上の息子から順に選んでいく。父親が認めた子なら、母親が正式な妻でなくても同じように受け継げました。
とても公平なルールですよね。でも、代を重ねるごとに土地はどんどん小さくなり、兄弟どうしの争いのたねにもなりました。ウェールズがなかなかひとつの国にまとまれなかった理由のひとつ、とも言われています。
人を殺しても死刑にならない?
ハウェルの法では、殺人を犯しても死刑にはなりませんでした。そのかわり、加害者の一族が、被害者の一族に「ガラナス」と呼ばれる償いのお金を払います。遠い親戚まで負担を分け合う、一族ぐるみの責任でした。
金額は、殺された人の身分によって変わります。ところが、盗みは重い罪で、一定の値段をこえる物を盗んだ泥棒は縛り首になることもありました。命より物のほうが厳しい、というのはちょっと不思議ですね。
猫の値段もきっちり
法律は、いろいろなものの値段もこまかく決めていました。冒頭の子猫の話もそのひとつ。ネズミを捕る猫は、穀物を守る大切な働き手だったんですね。
そして、こんな決まりもありました。お腹をすかせて食べ物を盗んだ人でも、三つの町を通りすぎても一度も食事にありつけなかったのなら、罰せられなかったそうです。
女性にも、ちゃんと権利があった
結婚は神さまの前の儀式というより、ひとつの「契約」でした。そのため、夫が重い病気になったとき、夫婦の営みがうまくいかないとき、そしてなんと夫の息がとてもくさいときには、妻のほうから別れることができたそうです。
また、結婚して7年たっていれば、別れるときに夫婦の財産を半分ずつ分けることができました。当時のヨーロッパの中では、女性にかなり多くの権利が認められていたんです。

善王が去ったあと
949年か950年、ハウェルは亡くなりました。
あとを継いだのは、息子のオウァイン、ロドリ、エドウィンの三人です。ところが北のグウィネズでは、追い出されていたイドワルの息子たちがすぐに戻ってきて国を取り返します。南の兄弟たちとの争いも続き、ロドリとエドウィンは950年代のはじめに亡くなってしまいました。
ハウェルが一代で築いた大きなまとまりは、こうしてまたバラバラになっていきます。土地を息子たちで分けるという、あの法律のとおりに。
それでも、法律のほうは生き残りました。1284年にイングランドに征服されて刑事の裁きは替えられたものの、それ以外の部分は、16世紀にヘンリー8世の時代の法律でイングランド法に一本化されるまで、600年近くも使われ続けたのです。
ハウェル善王はどんな人物だったのか
ハウェルは、戦いの強さで名を残した王ではありません。結婚で国を広げ、強いイングランドとはうまく手を組み、ここぞというときにグウィネズを手に入れた。剣よりも頭で国を大きくした、現実的な王さまでした。
そして、ばらばらだった各地のしきたりに「ハウェルの法」という名前がつき、ウェールズの人々のよりどころになりました。「ダ(善い)」というあだ名は、この法律の公平さから生まれたものです。
今でも、ウェールズ議会の最初の建物は「ティ・ハウェル(ハウェルの家)」と名づけられています。1000年以上たっても、ウェールズの人々にとってハウェルは「ルールをつくった善い王さま」なんですね。
父親カデルの物語はカデル・アプ・ロドリの記事で、祖父の物語はロドリ大王の記事で紹介しています。ハウェルの時代の流れは統一時代の記事、ハウェルが亡くなったあとの南北の争いは南北朝時代の記事をどうぞ。いとこのイドワル・ヴォエルが「ハゲ王」と呼ばれた話はあだ名王の記事に出てきます。





